「水城の築堤年代について」受講
第4回九歴講座「水城の築堤年代について」 2011/7/9 於:九州歴史資料館
昨年秋に九州歴史史料館は移転し、現在福岡県小郡市に所在します。
以前の太宰府市にあったときは何度か行ったことがあったんですが、移転後はまだ行ったことがなく初めてでした。
……めっちゃ迷ったあげく、大遅刻しちまいました_| ̄|●
160人定員の講座でしたが、ほぼ埋まっていたんではないでしょうか。古代史に興味のある人多いんですね。
遅刻してしまった私は後半しか聴講できなかったわけですが、それでもかなり興味深い内容でした。
水城の発掘調査は1970年から始まり、少しずつではありますが今でも進めているんですね。
現在の調査では、水城の築堤には2段階の時間差が存在ることがわかっています。といっても4年程度ですが。でも白村江の戦いの前と後なので、このことは非常に意義のあることです。講師の話では築堤の目的が変わっているのではないかとのことでした。
つまり、第一段階(白村江前)では朝倉橘広庭宮を防御するため、第二段階(白村江後)では、近く整備される予定(その時点ではまだ存在しない)大宰府政庁の防御のために水城は築堤された、という話でした。これってわたし的にはひっじょ~のグッジョブなお話です。
『日本書紀』によれば、白村江の敗戦により、唐・新羅連合軍が攻めてくるのを防ぐために水城を築いたとされているわけですが、なんかしっくり来ないんです。だってその頃宮都は飛鳥に戻ってますし、その後近江に遷されてます。日本上陸を防ぐのなら博多を守らないと意味なくない?大野城、太宰府あたりは結構内陸地です。大宰府政庁はまだ存在していませんし。一体何を守るための堤なのか。唐の侵攻をただ恐れて築堤したというわけではないと私は思うんです。
そんなわけで、非常に得心の行くお話でしたが、もうひとつ、興味を引く話が。
朝倉橘広庭宮は未だにその位置がわかっていません。朝倉市須川に跡地の碑が立っていて、私も見に行ったことがありますが、なにもありません。まぁ、『日本書紀』に書かれている”鬼”が出てきそうなところではありますが。
…と思っていたんですが、現在ではその須川より少し離れた志波という地が候補地として調査が進められているそうです。
知らなかった~~~~
近いうち、ぜひ見に行ってみたいのもです。
講義は半分しか聞けませんでしたけど、2時間半以上かかって行った甲斐ありました♪(本来ならば2時間弱で行ける距離だったんですがね)