枚聞神社

枚聞神社

薩摩地方の神社の話題が出たので、過去の旅行記から。2001年の記事です。

 

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さて、枚聞神社は薩摩一の宮として天照大神を正祀とし、他皇祖神八柱神(天之忍穂耳命、天之穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野樟日命、多紀理毘売命、狭依毘売命、多岐都比売命)を祀っています。

 

私が訪れたのが正月2日ということもあって、初詣に来た家族連れなどで賑わっていました。

 

「鹿児島に天智天皇ゆかりの神社があるらしい」をいう情報を得てやってきた私は、てっきり天智天皇を祀っているものだと思い込んでいたのですが、どうもそうではない様子。おかしいな~と境内をぐるりと見渡すとお馬さんの像が。

神馬

 

天智天皇は、大宮姫を慕って白馬に乗り、この開聞の地を訪れたという。天皇の愛する白馬は仙田の御馬所で、井上・大山両家に飼育されることとなり、それ以後、両家は牧聞神社の神馬役を務めた…んだそうです。

 

そもそも大宮姫って誰?ということになりますが、枚聞神社由緒記に記載されている「天智天皇御巡幸伝説」を紹介しておきます。

 

開聞岳の麓の岩屋に一仙人が行をしていたら或日一頭の鹿が現はれ法水を舐めたところ忽ち懐妊して一児を分娩した。之を瑞照姫、又は大宮姫と申す。天性の麗質世上に聞え、二歳にして上京、藤原鎌足に育てられ、十三歳にして宮中に召されて天智天皇の妃として御寵愛を受けること深かったが、他の女后等に妬まれ遂に宮中を逃れ出でて伊勢の阿野津より舟出し山川の牟瀬浜に上陸郷里へ帰って来られた。

その時大甕二個を持ち帰られたが、一個は途中で破損した。他の一個は現在尚神社の宝物館に保管されている。その後天皇は姫を慕って薩摩に下向され、姫の許で余生を送られ御年七十九歳で崩御遊ばされたと伝記には記されている。

 

この枚聞神社には宝物殿があり、実際大きな甕がありました。こんな大きな甕、一体なんの目的で持ち帰ったんでしょう???

さらには、寛政九年(1797年)五月に記された「開聞宮由緒古跡糺分帳」にこんな記載を見つけました。内容を要約すると以下のような感じ。

 

大宮姫の美しさは遠の朝廷・大宰府にまで聞こえ、姫は出向することになった。その後鎌足の居館に落ち着くが、十三才で宮中に出仕するようになり、やがて淡海帝の寵愛を受けるようになる。その寵を妬んだ大友皇子と宮中の女達は大宮姫を排斥しようとする。この姫は鹿の腹から生まれたせいか、足の爪は二つに割れ、牛の爪のような形をしていたので「牛爪じゃ」と陰口をたたかれ恥をかかされ、いたたまれなくなった姫は天智10年12月3日の宵暗にまぎれて宮門を出る。この時、大海人皇子のみが大宮姫を静かに見送った。

大津京を出た大宮姫一行は伊勢の阿濃津から船で西下し、頴娃(えい)郡山川に到着し、ここに仮の御殿を造りしばらく滞在し、翌年帰館する。

一方の天智天皇は姫が出奔したその日、駒に乗り山階へ行き、そのまま行方不明となる。その後大宰府まで行きそこから海路を取り、九州の東海岸を航海して鹿児島県曽於郡志布志町に着船。末吉、国分を経て、開聞の地へたどり着く。そして和銅元(708)年までこの地に滞在し、同年6月18日に崩御されたのである。

 

 

天智10年の12月3日といえば、天智天皇崩御の日ですが、実はこの日に大津京を脱出して薩摩地方で余生を送ったのだ!という伝説なのですね~。大津京大友皇子をほっといて、自分だけ脱出しちゃダメでしょ(笑)。

冗談はさておき、この天智天皇巡幸伝説は指宿、山川地方だけでなく喜入・国分・末吉・志布志など各地に広がっています。未確認ですが「薩隅日諸卿便覧」「鹿児島外史」にも記されているらしいです。あくまで伝説ではあるのですが、大津京からこれだけ離れた鹿児島地方に多く残されているというのは非常に興味深いですね。すでにこの時代、このあたりまで朝廷の勢力は浸透していたのかな?とか想像は広がります。

 

開聞岳

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