朝倉宮探訪紀

朝倉宮探訪紀

そんなわけで、2000年7月の記事から再録。もう11年も前の旅行記ですが。

この頃、朝倉宮の発掘調査はほとんど進んでおらず、須川地区に石碑がポツンを立っていただけでした。

そう思うと本当に感慨深いものがあります。

 

広庭宮

 

※ちなみに須川を朝倉宮とした説は、江戸時代に地元の庄屋であった古賀某が提唱したものです。

 

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  ~~(前略)~~

 

そして意外にも穴場だったのが、この恵蘇八幡宮。ここは天智天皇を祀っている神社ということだったので、一応お参りしておこうと思って来ただけだったのだが、別名を木の丸殿といい、中大兄皇子斉明天皇の喪に服すために籠った場所らしい。本来殯は12ヶ月行われるものだが、軍事中のこともあり一月を一日に変えて十二日間この場所で母帝のために祈ったということだ。おおお、そういう所だったんだ。「君が目の恋しきからに泊ててゐる斯くや恋ひむも君が目を欲り」というお歌を思い出す。
中大兄皇子が実際にこの地に生きていたことをひしと感じた。感動~。

木の丸公園

 

 

ここは木の丸公園と呼ばれていて、古代をイメージした万葉の谷広場とか古代の森広場などがある。

 

                       漏刻オブジェ

 

他にも中大兄皇子ゆかりということで時の広場と称してこんな漏刻のオブジェ(↑)があったりもする。

 

 

お社で参拝した後、階段をのぼっていくと斉明天皇を葬ったとされる御陵がある。小さな小高い丘につくられた円墳だった。斉明陵

ただちょっと手入れされてないようなのが悲しかった…。まあその亡骸は故郷飛鳥に帰っていったわけだから実際には何もないのかもしれないけれど。例の酒船石の亀の発掘のこともあって、斉明天皇といえば話題の人なんだからもう少し気を遣ってもいいんじゃないかなぁ?

 

 

そして、私の大好きな歌碑!秋の田の

 

朝倉といえば「朝倉や木の丸殿にわが居れば名乗をしつつ行くは誰が子ぞ」か「君が目の~」のお歌があるだろうと探してみると……あったのは『秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ』だった。いや、これも確かに朝倉で詠まれたものだとは思うけど…。う~ん。やっぱりこのお歌が有名だからかな?

 

ところでこの木の丸殿近くには筑後川が流れている。筑紫次郎と呼ばれるように日本でも有数の大河だ。当時の水量は知らないけれど、そもそも朝倉に宮を築いたのはこの水路の利用を考えてのことだったわけだから当時からも大きな河であったことには間違いはないと思う。この河の流れの音を聞きながら、母帝の喪に服していた期間、中大兄皇子はいろいろなことを考えていただろう。母の死を悼むとともにしかし政治家、中大兄皇子はすでに次に成さなければならない事を考えていたはず。それだけ逼迫した状況下であった。大津宮遷都というのはこの朝倉宮を営んでみて水路の重要性を感じたからではないだろうか、そんな気がした。

 

 

 

朝倉宮跡からは何も出土されていないらしいが、確かにここに中大兄皇子が生きていたのだと思うととても嬉しくなった。(本人にとっては全然嬉しい状況ではなかっただろうが;)思い入れのある人間にとってはなかなかいいところでした!
今度はもう少し下調べしてからもう一度来たいと思いながら、家路についたのであった。

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