クレセントミニオフ (藤井寺から羽曳野をめぐる)その①
前回の記事から1年半…
ブログがあったことを本人すら忘れていそうです。
昨年の北京都のオフ会のことも書かなきゃなのですが、ひとまず忘れぬうちに、ミニオフのレポートです!
以前から野中寺にある弥勒菩薩半跏像の台座にある銘文のことが気になっていました。
毎月18日が御開帳だということで、そのうち行こうと思っていたのですがクレセントのミニオフとして 拝観することになりました。
この日 藤井寺に集合したクレセントメンバーは5人。 ここ数年のクレセントのオフ会は 自動車による移動が多くなっていたので公共交通機関を使った移動というのは久しぶりです。
長岡良子先生の「暁の回廊」は舒明天皇11年の河内国丹比郡野中郷、ここから物語は始まるのです。 そう、阿刀君の実家の船氏はここ野中郷にあるです。(と偉そうなことを言っておきながら、それは浅香さんに言われるまで気づいていなかったんですが)
野中寺の縁起によると蘇我馬子の助力を得て聖徳太子が建立したとされていますが、
王辰爾を祖とする百済王氏の一族として、船史(ふなのふひと)で代表される船・津・白猪(しらい)らの氏族が、同郡の西に隣接した丹比郡にかけて活躍するようになっており、船氏が一族の繁栄と守護を願って建立した氏寺であるという説もあるそうです。
境内には塔跡、金堂跡の礎石も残っていますが、伽藍配置は少し珍しいものらしい。
さて、その野中寺の弥勒菩薩半跏像が今回のオフ会の最大のお目当てです。
この台座には「丙寅」の刻銘があることがポイントです。天智5年(666年)の制作だということ。
【銅造弥勒菩薩半跏思惟像】
台座丸框刻銘
丙寅年四月大■八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也
友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也
ここに書かれている中宮天皇は誰のことか、とか、当時天皇号が使用されていたのか、とか色々な論争があるようです。
天智天皇5年というと、斉明天皇はすでに崩御、中大兄皇子の称制とされている時期です。その期間は間人大后が中継ぎとして即位していたという説を採って中宮天皇は間人皇女とする説が有力なんですかね?日本書紀によると、その前年2月に間人は薨去していますが。
私の妄想(←)によると、天智天皇5年3月には佐伯連子麻呂を見舞っている記事もあることですし、白村江の敗戦、母、妹、盟友の相次ぐ死に直面して弱っていた天智のことじゃないかと思うんですけど、まぁ妄想です(^^;
弥勒菩薩半跏像は御開帳の日には本当に間近で拝見できるのですが、肝心の銘文は台座の裏側面に刻されていて、像は厨子の中に収められているため、全文読むことができません(泣)
いやいや皇子様のために作られた弥勒像だと思えば、ありがたく拝んできました。一日中眺めていたくなる仏様です。